小売業における個別原価法とシステムとその先に

まず小売業の利益計算の基本的な会計処理は売価還元法になっている。ありとあらゆる原価法の中でもっともザルで、かつ、いい加減な方法の一つである。端的に言えば、一定のカテゴリーベースでの売価の総額と仕入の総額を総計して、原価率を算定して、その率をもって利益を算出する計算方法になる。また、基本的に棚卸法になるため、実際の棚卸を行い、原価計算期間終了時点での在庫金額を確定させないと、利益が算出されない仕組みである。

現場感覚でいうと、値入率(事前想定粗利率)から、実際のロス率を差し引いても、粗利率(事後達成粗利率)に一致しないため、直感に反するオペレーションになる。このため、数字にしっかりした人間であればあるほど、数字を信頼しないというモラルハザードな仕組みになっている。さらに、そもそも小売流通業の税前利益率は2-3%を達成できれば“優秀”であり、細かい利益率の管理が必須である。バイヤーレベルでは、少数第二位レベルまで率の管理をしているケースすらある。売価還元法のような、極めていい加減な利益計算方法は、「現代」の小売流通業では本来は適用されるべきはない。

在庫評価・利益測定の会計基準のなかでもっとも正確なものは、個別法であることは論をまたない。これは仕入れたもの一つ一つに、ちゃんと在庫価額を設定して、販売時点に、その実現売価から対応する原価を差し引き、利益を計算する方法である。「この一つの林檎は100円なので、120円で売ったら、儲けは20円だよね」という非常に平易に当たり前、ほぼ自明に近い計算方法である。

・・・ということで冷静に見れば、普通に個別法ベースで原価計算をおこなった方が正確な利益を算出することができる。なので、売価還元法はとっとと廃止して個別原価計算を導入した方がよい、ということは、まぁ歴史的にずっと言われているし、普通の感覚ではある。(いい加減な方法に麻痺してしまって、ちゃんとした方法が面倒、という人種は絶対にいる。そのような方は、大抵、大雑把にやろうと、細かくやろうと結果変わらないという自説を披瀝されるが、数%の粗利コントロールを行っている現場をもう少し冷静に見るべきだと思う。)

ところが、である。そう簡単にはできないのですよ。これが。

この個別原価法(単品のインスタンスユニークのタグ付けは出来ていないので、厳密は単品ユニークなFIFOに基づく原価配分法になるが、ここでは便宜的に個別原価法と言っておきます)と現行の売価還元法の計算量を比較してみると、なぜ導入できなかったかは、割と簡単にわかる。

大抵のそこそこの規模の中堅〜上位のSM・GMSクラスの商品マスター数は20万件程度である。(経験的には2000万件のマスターというのにお目にかかったことがあるが、これは例外だろう)これに比して、カテゴリーインスタンス数は、大抵は2000カテゴリー程度に収まる。まず、この時点で計算対象が単純に100倍になる。さらに、個別原価法は単品単位で、販売出庫と仕入入庫の在庫の引当処理を行う必要あり、日別で1SKUあたり平均で100TX程度発生したとして、計算のオペレーションは、売価還元法が集計のみの1回で済む(一応デイリーを想定)とすると、おおよそ100倍になる。

すなわち、かなり単純な推定でも、計算量は1万倍になる。

1万倍? 在庫計算は例外処理の固まりみたいな部分はあるので、そう単純なプログラム構成にはならないのが常であるし、また工夫をかなり凝らすことで計算量は削減できる。また、現行の売価還元法は、かなり原価ベースに近いデータを取るようにしているので、計算量もかなり増えている。ので、実際はここまでの乖離はない。が、従来の計算リソースでは、まったく対応できないレンジになるのは、直感的にわかるレベルの差になる。(実際は1000倍程度に収まる)

よって、システム投資がかさむ。それ故に、個別原価法は小売流通業では導入され辛い。勿論計算量だけの話ではなく、業務的問題も非常に大きい。インストア系原体換算の処理、入庫・出庫の在庫の紐付けの問題や、在庫の分解の話。また移動・振替処理に加えて、売価変更時の商品原価へのインパクトの評価。枚挙暇が無いほど、やるべきことはある。これらはどれもこれもオペレーションに影響を与える。普通の感覚であれば、「始まる前から終わっている」という状態にちかい。

ところがですね。風向きが割と強風警報並みに変わっている。

1. オペレーションレベルの向上
現状の小売業では、さすがに自動発注は当たり前になってきた。大抵の自動発注は、過去トレンドに現在在庫データを加味した、割と現実的な発注ロジックが適用されていることが多い。勿論、Sell-One-Buy-One方式での自動発注というやり方もあるいえばあるが、ほとんど役に立たないという現実も知られるようになった。さてこうなると、ある程度在庫の管理レベルもあげていくしかない。というわけで、現在のところ現場での在庫管理のレベルは上がりつつある。すなわち、個別法の前提となる単品のハンドリングのレベルは“以前よりは”向上している。(必要十分か、ということについては一概には言えないが、より追加的業務レベルの向上の必要性の度合いが下がっているのは、間違いないとは思う)

2. IFRS
IAS2号である。売価還元法すなわちRetail methodに関する記述がある部分を、そのまま引用する。

Techniques for the measurement of the cost of inventories, such as the standard cost method or the retail method, may be used for convenience if the results approximate cost.

ここにあるRetail methodが売価還元法である。要は留保条件つきで許容される、ということになっているが、その条件は「通常の原価計算をちゃんとやって比較して、差がないこと」ということになっている。というわけで、「通常の原価計算」とやらを行う必要があるわけで・・・論争にはなるでしょうが、それが売価還元法ではないことは、中学生でもわかる。まぁとにかく単品の原価は追いかけろ、という結論にはなる。勿論、IFRS自体は2015年の強制的適用が某大臣の記者会見で、2年ほど先延ばしになったが、逆にやるということが決まってしまった感じにもなっている。この辺の結論は今年(2012年)出る事になっているが、小売業的には5年以内に売価還元法については一定のケリをつけろ、という話にはなるだろう。

3. 分散処理による膨大な計算可能性の向上
端的に言うと“Hadoop”と“AWS”である。別にBIとかビッグデータとか、そういう議論ではない。ここでの“Hadoop”はMapReduceとかHDFSとか、個別の実装ではない。分散処理の敷居を一方的に下げたというシンボリックな意味でのHadoopである。分散処理の敷居をさげ、大量の計算リソースを一気に使いこなす仕組みの“シンボル”として普及しつつある。ある種のバズ・ワードは、人口に膾炙するようになると、実装以上の意味を持つ事がある。現在のHadoopはこれにあたるだろう。この言葉のインパクトは大きい。「別に分散処理はそれほど高度なものでもなく、普通に使えるものですよ」という良い意味での誤解が普及している。

さらに“AWS”である。これは、別にAmazon Web Servicesの特定のサービスを意味しているのではない。計算リソースを「必要に応じて、蛇口から出る水のように」提供します、という方式が「普通にサービスとして提供されるものである」ということの認知を普及させた、という意味でのAWSである。現実には従量課金を“きれいに”出来ているところは、AWS位しかないのであるが、クラウドというものはそういうモノだという意識付けを普及させることには、多いに貢献している。

つまり、「多数のサーバーを保持する事をしなくても、分散処理のフレームワークを一時的に利用して必要最低限のコストで強烈な計算リソースを利用・使い切る事ができる」ということが“普通に可能である”という言い方が、一般化しつつある。厳密にいうとこれが出来ているのは実は、世界中で未だに(敢えて言うが“未だに”)EMR位しかないのだが、なんというか、「いや、それぐらい普通にできるんじゃない?」という考え方が、少なくともITではそれほど特殊な話ではない。

(・・余談だが、技術的にはAWSと日本のDC系のサービスでは、有り得ない位の差になってしまって、もはや追いつく事は圧倒的どころか絶望的に困難だが、ビジネスの実行については、AWS-Japanが非常にスローなので、日本のDCサービサーにもチャンスが出てきている。日本のAWSのユーザー会とかを眺めていても、未だにB2Cオンリーなイメージを振りまいており、ここ数年、従来と同じようなマーケティングをおこなっている。数字的にサチって来ているのは簡単に推測できるのだが・・・

国内DCベンダーも、Ec2ライクなベースでいいので、時間貸しのスキームができて、コンプラとセキュリティと“特殊なサポート”で訴求すれば、十分巻き返しができるなー、と端から見ていて感じるところではあります。実際、国内DCベンダーで賢明なところは技術では勝てないと見て、別の戦術を立てつつあります。ワールドワイドでの技術力とバイイングパワーがあるからといって、必ずしも日本のマーケットで勝つ訳ではないのですが・・・)

閑話休題

上記の三つの矢、すなわちオペレーションの向上+IFRSによる外圧+クラウド分散環境による大規模計算能力の現実的な取得、が重なってくると、従前の「始まる前から終わる」という空気は変わる。

翻ってみれば、もともと小売流通業においては、個別原価法は悲願ではあった。なにしろ、単品管理はもう40年近い歴史があるにもかかわらず、利益計算がカテゴリーベースの売価還元法という、ある意味まったく整合性のとれない手法に甘んじていたわけで。そこが変わる可能性が高いというのは、インパクトが大きい。

当然のことだが、売価還元法から個別法に利益計算のベースが変わると、要求されるオペレーションの練度とそのアウトプットがべらぼうに変わってくる。繰り言になるが、小売流通業は1%の利益が変わると、利益の金額が「単純に倍になる」そういう業界だ。

おそらく圧倒的に変わる。

なんだか、トリックのようだが、細かいビジネス制御は、そもそも日本人の国民性にあっている。今までの、その道具立てが無かったということだ。

さらにいうと、この手の低利益率業界は、一般にサービス業・消費材流通業では普通にいくらでもある。上記の流通小売業の売価還元法から個別法への移行は一つの例にしか過ぎない。今後の「右肩上がりどころか、フラットなら万歳で、右肩下がりが普通になる」日本の産業では、細かい利益管理が必須になる。要するにクラウドとか分散とか、豊富に提供される計算リソースの出番になる。今までの「細かい制御」というのは、大抵は売上の制御であり、「利益」の制御ではない。一般に利益計算の計算リソースの要求は、売上とは比較にならない。大手の一部の製造業のメーカーではなく、圧倒的な国内ボリュームをもつサービス産業が細かい利益管理の道具立てを持つことは、恐ろしく意味がある。

日本のサービス業は全般的に行き詰まり感が強い。
が、少しずつではあるが、風向きは変わっていると思う。